2013年8月25日日曜日

パシュパティナート

白い煙が空高く天に昇っていく。

人様の葬式を覗くなんて、何とも悪趣味だと思った。それでもどんなものかと興味を持って、ここへやって来たのだ。


肩を寄せ合い、すすり泣く声が響く。
何体もの遺体を見た。1日にどれ位の人がここで火葬されるのだろう。
日本の葬式風景と何ら変わらない。泣いてる姿を見ても、何にも面白くないのだが。


ボケっと、おばぁちゃんのお葬式を思い出していた。
私はあの日が好きで、たまに思い出すのだ。
みんな悲しくて涙は止まらないのにさ、ふとおばぁちゃんとの思い出を思い返すと笑っちゃったりしてね。

親戚や友人が沢山集まって、それは賑やかだった。
おばぁちゃんはきっと喜んでいると勝手に思っては、死んでしまった事を認めるのだ。


その間もずっと、
ジワジワと遺体は焼かれていく。
藁はバチバチと音を立てて。
その横で猿たちが喧嘩を始めた。

ジリジリの太陽の下、はっきりと火の音を聞いた気がした。

真っ黒になった人影を目にしたけど、何て事はなかった。
どんどんどんどん燃えていく、跡形も無くなる、人間だった事も忘れてしまいそうだ。

反対岸からぼんやりとその光景を眺めていた。間に流れるガンジス川の流れは早い。


状況とは無関係な少年たちは川へと潜り、川底のお金を拾い集めていた。

このままでは熱中症になってしまいそうだと、腰を上げると怪しいサドゥーの集団が手招きをしている。

引き寄せられそうになったけど、焦る事はないか。インドでのお楽しみにとっておこう。


つづく。

2013年8月24日土曜日

パクタブルのお祭り

昔、カトマンズの王様の息子が若くして亡くなったそう。
母親はひどく落ち込み放心状態が続き、笑う事を忘れてしまった。それを見兼ねた王様が彼女を笑わせる為に考えたお祭りなんだって。

そう、今日はバクタプルのお祭り。


そこには女装をした男性、派手なペイントをした人、子どもたちは牛の衣装を着させられていた。
全ては悲しむ人を笑わせる為に。


そして、人間はいつか必ず死を迎える。
こんなに沢山の人が亡くなった事を教える様に、その年に亡くなった人の写真を飾り日本の神輿の様に担いで、町中を練り歩くのだ。
家族、親戚は列に並び、唄い、舞う。

男の人たちの踊りは一段と激しく、かっこいい。無心で木の棒を振るい、叩き合い、掛け声をかけ、軽快に踊る。惚れ惚れしてしまう。
その姿は勇ましい。足下を見れば、裸足だ。


太鼓は弾け、シンバルは響いた。つられてこちらも飛び跳ね、ついつい体が動いてしまう。

それはよく晴れた日のとてもあったかいお祭りだった。

町中が活気に溢れていて、行き交う人々は目が合えば満面の笑みを返してくれる。
小さい子どもから、腰の曲がったお年寄りまで、みんな生き生きとしていた。
すごい熱気だった。やっぱりお祭りはこうでなきゃね。

どこか日本のお祭りにも似ていて、今年は七夕祭りにも花火大会にも行けなかったので、嬉しくなった。


この王様はとても素敵な人だったんだろう。いつの時代も、人間は悲しみを乗り越えようとして来たんだ。


こんな風に今も続くこのお祭りは、カトマンズの人々の特別な1日になっているのだろうな。


つづく。

2013年8月23日金曜日

ナガルコットでの日々

続々と人が流れ込んで来る。

収穫した作物の入ったずた袋の上に上手に腰掛ける人、譲り合いながらそれぞれ器用に居場所を見つける。

わずかな隙間にここへ座れとお姉ちゃんが声をかけてくれた。お尻をねじ込み、何とか私も席を確保。

ナガルコットまではローカルバスを乗り継いでやって来た。
オフシーズンの今はツーリストバスはないらしい。すっかり楽してツーリストバスばかり使っていたけど、やっぱりローカルは面白いし、断然安い。
2時間半〜3時間先のナガルコットまで、70ルピー!70円だ。

バスを仕切るお兄ちゃんが車体を叩けば、それが出発、停車の合図。
途中下車を繰り返し、ぐんぐんと坂を登り着いたこの町は標高2100mの所にある。寒い。

早速バス停で声を掛けられた人にホテルを案内してもらう事にした。

途中、旅人の間では有名なとんねるずの憲さんそっくりの憲武カフェの主人にも遭遇。
その後、お店を訪ねたが、本人は不在でまたお父さんそっくりな二男が、名物のチーズオムライスを作ってくれた。凄いボリューム。



その夜、10時を回った頃からホテルは場末のクラブと化した。
レストランを閉めた途端、爆音の音楽を流し出す。
スタッフ、その友だち数人が踊り狂う。もちろん汗だくで一緒に踊る羽目になる。エンドレス!


様子を見計らって、逃げる様に部屋へ戻った。

オフシーズンの今は毎日ひまそうにしてたし、観光客を捕まえては夜な夜なこんな調子なんだろうな。


翌朝は展望台までバイクで連れて行ってもらう。運が良ければヒマラヤが見えると聞いた。

朝5時、部屋のドアを開けると、外は真っ暗。持っていた厚手のパーカーに袖を通すも、まだ寒い。
バイクで切る風がまた冷たく、眠気が覚める。


四方に広がる雲海はとても神秘的だった。徐々に太陽が登り、ほのかにオレンジ色に染まる。

ヒマラヤ山脈は緩やかに続くのに、一つ一つの山は険しく厳しい表情をしている。かっこいい!


この時ガイドをしてくれたのが、実は憲さんの長男だった。

彼は自分の村の言葉、ネパール語、ヒンドゥー語、英語を話し、
日本語と中国語を勉強している。韓国語とフランス語も少し話せる、26歳。
日本人の観光客が減った今は中国語を頑張って覚えてるのだとか。それもこうやって観光客と話して、覚えるのだと言うから驚いた。

いつか日本で働いてお金を作り、ナガルコットの高台にホテルを建てるのが夢。日本に行く費用として、50〜70万位を今は貯めてると。

今回も日本人が来た事を聞きつけ話をしたいと、ガイドをしてもらう事になった。

頭が上がらない。

何度も受けたカルチャーショックだけど、今回は色々重なって、少し疲れていた。

彼を紹介してくれた人こそホテルを案内してくれた人で、日本に5年間住み飲食店を経営していたと言う。日本語もペラペラ。
だけど、日本から戻って来てから様子がおかしいと住民たちは言っていた。

確かに昼間から酒臭いと思っていたら喧嘩を起こしたり、私たちは付きまとわれたり、少々厄介な付き合いになってしまったんだ。
小さな町で避ける様に行動するのは、面倒だし気が引けた。

喧嘩の時に殴られ腫れた頬を、虫歯で痛いのだと、私たちに話す姿は見て居られなかった。

日本に行って来た人と日本に行きたい人。共に仕事を探している。


次の日にはナガルコットのお祭りもあるらしく、もう一泊してけとみんなから勧められたが、予定より早くカトマンズへ戻る事にした。早々布団に入り、朝を待った。


出発の朝、ある人に「旅は前向きじゃないとね」と言われ、このタイミングもあってずいぶんと気が楽になったんだ。

憲さんにもちゃんと会えたしね。




つづく。

2013年8月19日月曜日

ポカラでの日々(後編)

チトワンから向かった先、ポカラの町にバスで入り、目にした景色は馴染めるか少し心配だった。
レイクサイドには欧米人向けのレストランや土産物屋も多く並ぶし、町も道も広く何だか綺麗過ぎた。

そんな不安は1日1日と過ごすうちに、すっかり消えていった。



何度も足を運んだ、PANDEY  RESTAURNAT。

ある夜、ママとパパが店先に座って、嬉しそうに手招きをしている。

どうしたか聞けば、2人が来ないから待ってたのよ、と。帰り際には明日のモーニングはどうする?と、こんな調子で、私たち行きつけのお店になったのだ。

夕飯時、私は空瓶を振ってはビールを空けた。揚げモモがとにかくビールに合い、ついつい飲み過ぎてしまう。
いい気分でフラフラと帰っては、宿のベランダで酔いに任せて、ヒロちゃんに絡んだ。3階の角部屋は我が家の様に散らかし放題。

1ヶ月後、少し先に移転するらしく、インドに疲れたら帰って来るよと、新しい店の場所も教えてもらった。


お世話になったツーリストのKBは顔を出す度、熱い焙じ茶を淹れてくれる。
私たちのガイドだったビサールは忙しいKBに代わって、よく店番をしていて、店の前を通る度にニッと白い歯を見せてくれた。


たくさんのネパール人と話をして改めて思う。
日本人と波長が合うのかな。

どこの国でもたくさんの人に親切にしてもらったけれど、ここネパールの人とはより一層仲良くなれた気がする。日本が大好きと話す人も多いし、町を歩けば片言の日本語で挨拶してくれる。

着いたら1番初めにしようと思っていた、フェワ湖のボートにはとうとう乗らなかった。そんな事もある。


最初に感じた思いとは裏腹に、のんびりまったりとポカラの時間に馴染んでいた。
仕舞いにはちゃっかりお土産まで買い、十二分に満喫。バックパックと私のお腹はすでにはち切れそうだ。



いよいよVISAの期限も迫って来た。カトマンズでも、まだ行きたい所は残っている。
そして、次の国は魅惑のインド。身がすくんでしまいそうになる。
まぁ、それまで大好きなネパールを思う存分満喫しようではないか。



つづく。

2013年8月15日木曜日

誕生日

20代ラストスパート!なんて誕生日を迎えた同い年の友だちには声をかけたけれど、はてさて自分はどうだろう。

ずいぶんとのらりくらりと遠回りして来た。
そしてまたこんな風にのん気に旅に出て、のらくらとしている。







あぁ、もうどうなってんだ、空の上。


誕生日の記念に飛んでやった。

人生初のパラグライダーは最高に気持ちが良かった。
飛び立つ前の手に汗握る思いなど、一瞬で消え去り、浮かぶ様に泳ぐ様に、宙を舞う。
足元にはおもちゃの様なポカラの町。インストラクターのハンドル操作で左右に揺ら揺ら。時に物凄いスピードで急降下し、悲鳴を上げる。歓声か。


澄み切った空気が体いっぱいに浸透していく。


最後はフェワ湖に引き寄せられるがまま着地。
夢の様な浮遊体験はあっという間の出来事だった。

何だか吹っ切れて、のりくらな日々をまだまだ続ける覚悟を決めたのであった。


夜はヒロちゃんに中華をごちそうになる。お気に入りのお店だ。お酒が入ると会話は久しぶりに弾む。

今までの旅を思い返し、出会った人たちの顔を思い浮かべ、こうして仲良く旅が出来る事に改めて感謝する。
今までにも多くの感動、ショック、ハプニングを共にして来た。いつも遊び場は一緒だった。
同じ絶景を眺め、同じご飯を食べ、同じ布団で寝る。これからも。

なかなか悪くないコンビだと思う。
プレゼントに探してた髪飾りのドゥリー、お揃いのバック、お決まりのメッセージカードをもらった。ありがとう!


そして、友だちからの沢山のお祝いメッセージに、無事日本へ帰る日まで元気でいなきゃ!と、パワーをもらった最高の1日であった。


つづく。

2013年8月13日火曜日

ポカラでの日々(前編)

6時半起床。久しぶりの早起き。

20代最後の誕生日、何か特別な事でもしようかと考えた結果、結局山へ行く事にした。
そう言えば、去年の誕生日も山で過ごした。

誕生日小旅行として一泊二日のトレッキングへ、いざヒマラヤ山脈を眺めに行く。この雨期の時期にって所がまた悔しいが。


すいすいと進む、ガイドのビサールに着いて行くのは容易ではない。
ジーンズに革靴、20歳の彼にとってはちょっとした遊び場であり、毎日町へと行き来する通勤路みたいなものなのだろう。

負けじとハイペースに2時間半程粘り歩くと、今日の目的地へと着いた。ビサールの家であり、ホームステイ先。


早速ママにダルバートをご馳走になり、一休み。雨水を沸かしお茶を淹れてくれる。ずいぶんと遠くに来た気がした。

それからビューポイントへと向かう。




明日はここで朝日を見ようと言っていたその場所までは、容赦無く険しい道無き道が続いた。

着いた先は小さなお寺。

幾重にも重なった分厚い雲の先にヒマラヤ山脈は見えるらしい。
雲に覆われたその先は今見えないが、もしここに8848mのエベレストが現れるとするなら、それは信じられない大きさなんだと、すぐにわかる。

ただただ明日の晴天を祈るのみ。

夕飯のダルバートはゴーヤ入り。
お父さんが出してくれた地酒のロキシをロックで飲み干し、7時半にはネパールお決まりの停電になり、9時には大人しく就寝。


翌朝、早朝に歩き出す。
広がる緑のグラデーション。見事な棚田。
四方の斜面には集落がいくつかあり、ニワトリと赤ちゃんの鳴き声がこだまする。


一晩続いた雨こそ止んだものの霧で視界は悪く、半ば諦めかけていた時、目の前に光がさした。



雲の切れ間にヒマラヤ山脈のマチャプチャレの穂先が見える。
気高く重々しいその山は恐ろしい程高く、遠く、そして手が届きそうな程近くにも感じた。


これがヒマラヤかぁ、何十分と眺め、見惚れていただろう。
エベレストは見れなかったけど、大満足のトレッキングとなった。


去年から始めた登山に思いの外ハマってしまった、私。
きっかけは彼の勧めで、今頃その彼も4日間の縦走に挑戦している。
毎年一緒に過ごした誕生日も今年は別々。でも、お互い山にいるのだから、笑ってしまう。帰ったら、話が尽きないだろうな。

次は乾期のベストシーズンに彼と一緒に来たい思う。夢のエベレスト。





つづく。

2013年8月9日金曜日

HOTEL ROYAL SAFARIでの日々

もうすぐホテルは賑やかになる時間。みんな元気に働いているだろうか。

ウエイターとして働くアモン。
1番の働き者でいつでも私たちを気にかけてくれた。こんなに気持ち良くて優しい接客を今までに受けた事はない。私たちの下手くそな英語を何度も何度も聞いてくれ、私たちにわかる様に何度も何度も話してくれた。朝から晩まで働くアモンの姿はとても頼もしかった。私たちのアイドルだ。

料理人のスモンは人懐っこくて、いつもニコニコしている。
今日もご飯美味しかったと言うと、得意気な顔をして、すごく嬉しそうに笑うんだ。

次来る時は日本人の男の子をいっぱい連れて来て、日本の男の子が大好き!と豪快に笑うラックス。
ホテル唯一の女の子で、しっかり者。女同士、話すのはいつも男の子の話題だった。あそこに行けばいい男が居ると、秘密の情報も教えてくれたっけ。

シャイなサガミはいつもあんまり前に出て来ないのだけれど、最終日、「貴方を忘れません。次に会う時までに日本語をたくさん勉強するので、もっと話をしましょう。」と話してくれたんだ。

セキリュティのサガミはHIP HOPが好きなワイルドな男の子。
ある夜、部屋の外で一人煙草を吸っていたら、私が部屋に戻るまで、隣でおしゃべりしてくれたね。
僕がこのホテルを守ってるんだと、胸を張って。

顔を合わす度に煙草をせびって来る、ビカースは冗談ばかり言って、ラックスをからかっていた。



最後の夜は1時近くまで、テラスでみんなと過ごした。

いつもはもっと早く閉めるのに、この日は眠い目をこすりながら、私たちに付き合ってくれた。


私がジーナ、ヒロちゃんがロースニー。
2人合わせて「すべての力」と言う意味らしい。
みんながプレゼントしてくれた、わたしたちのネパールネームだ。
みんな笑っていた。

もう二度と会えないかも知れない。多分そう思う。
でも、そんな事は口にしなくてもいいし、考えなくてもいいか。
情けない程寂しくなって、胸が苦しくなった。

みんな18歳から20歳の若者。
みんな仕事が大好きで、誇りを持って働いている。
そのキラキラした姿を毎日テラスで眺めては、元気をもらっていた。


クヨクヨしてても仕方ない。
その笑顔を忘れなければ、またいつか会えるだろう。

また会う日まで。



つづく。

チトワンでの日々

バスから一歩下りると一斉に客引きが飛び付いて来た。
それは今までのどの地でもない程の凄まじい形相で。
顔は近いは腕は掴まれるは道は塞がれるは、もう笑うしかなかった。


逃げる様に中国人の乗った車に乗り込み、そのまま着いたホテル。

少し高かったけど、ここに決めた。
そして、この日から始まる穏やかであたたかい日々。


何の気なしに入ったツーリストで知り合ったクマル。
着いて早々だったが、ジープサファリは夕方がいいよ、との事でそのままガタガタのジープでガタガタのジャングルへと連れてってくれた。

そこではサイやワニ、鹿を間近で見る事が出来た。
誰も居ない深い森の中をひた走る。どこまでも続く緑、いつまでもドライブしていたい。


安くして欲しいと要望した所、翌日はクマルとアシスタントのラモウのバイクの後部座席をゲットした。

国立公園を像に乗りのんびりと回り、川では像と一緒に水浴びをし、像の赤ちゃんを見に行った。



クマルは私たちをフレンドと呼び、仕事そっちのけでツアーにない村探索や自然が大好きなクマルとっておきの絶景スポットへと、連れてってくれた。
ごはんを一緒に食べ、ある夜はタルー族のダンスを見に行き、一緒に踊り、色んな話をしてくれた。
来年は私の彼も連れて来て、みんなでお酒を飲もうと。


仲良く3人乗りでドライブに出かけた日は、帰りスコールに降られ、途中の村で雨宿りをさせてもらった。

そこには私たちに興味深々の子どもたちがこっちへおいでと手招きする。クマルはのんびり地元の人たちとお茶をしている。


クマルが一緒じゃなければ、行けなかった場所、出会えなかった人。
本当にクマルと遊ぶ毎日は楽しかった。


初日に腕を掴まれた客引きのお兄ちゃんたちは、ホテルからすぐのツーリストにたむろしていた。


ひまそうにしていたので、冷やかしに行った所、これからバス停に旅行客が来るから、お前たちも一緒に来て手伝えと。

ついて行くと、そこには初日の光景が繰り広げられて居た。
20〜30人の客引きたちは威勢良く旅行客を取り合い、旅行客が各々去って行くと腰を下ろした。

お前たちは何してるんだ?と笑い、次から次へと冗談を言い出す。
あいつはバカだとか、こいつは食い過ぎであんなお腹だとか、結婚してくれとか、そんな内容だったと思う。
私たちが笑えば、それを見て更に派手に笑い転げるのだ。お腹がよじれる程、笑った。
何だいい奴らじゃないか。


小さい町だから、毎日誰かに会う。顔見知りがどんどん増えて行く。
挨拶を交わし、おしゃべりをする。

サファリツアーを終えれば、見所も少ない小さな町だけど、私たちにとってこの地はいくら過ごしても足らない程、居心地の良い、離れたくない場所となった。



つづく。